2010年12月19日

死を考えるということ

宮崎哲弥さんのテレビ番組に青木新門さんがゲストで出演していた。


本木君がうじが光ってみえたという場面を取り上げていた。

一切衆生悉有仏性(生きとし生けるものみんな命である)

光のイメージ。


生と死が限りなく近づいた瞬間、生きていながらでも死を100パーセント受け入れた時あらゆるものが差別なく輝いて見える。



『銀河鉄道の夜』でもすすきが輝いて見える。

亡くなった人がみんな良い顔に見える。

自我が崩壊した時に見えてくる。だから動物たちは死に対する不安がない。執着、欲念、不安が全部なくなってしまうと本来の輝きが見えてくる。光と一体となった週刊を法然は光顔巍巍と言った。『教行信書』に書いた。

太陽、月、電気の光は遮断物があると影が出来る。私が言っている光は影が出来ない光が仏教で言う光だと思います。

その光に出会うには祝宴でしかない。大きな悲しみに出会う。大悲=光。

宮崎「第一回のゲストは五木寛之さんで慈悲の悲しみの意味の重さを注目していないんじゃないかと。」

大悲がなくなっている社会は悲しみや苦しみ、痛みを与えまい与えまいとして育てるのが親の役目ぐらいに思っているんですよ。どんなにそう思って育てても大学受験失敗したり失恋したりで親がタッチできない世界に、その時に混乱してしまっている状態が今の状態です。

宮崎「痛みや不快に鈍感な子になる。」

ホームレスを殺してしまえだとか目の前から消してしまえとか。

宮崎「凶悪な短絡に結びつきかねない。私たちは危機的な存在であると常に忘れてはいけないと思うんですが、そうすることで生は輝いていく。」

死の現場はぴんと張り詰めた緊張感で違う。五感で死を認識した人と頭で死を考えた人では全然違う。

酒鬼薔薇聖斗の彼は死というのを頭で考えていた。お母さんが明日学校で留守番していてとおばあさんの臨終に立ち会わなかった。

私が知っている北九州の14歳の少年はおじいちゃんの遺体の笑顔~という作文を書いた。おじいちゃんが亡くなる臨終の場にいた。五感で死を認識していた。

死の瞬間に立ち会わなくなってきた。大人でもそう。死の瞬間に立ち会うと違うんですよ。死の現場に立たないと駄目だということ。医者も死を見ていません。モニターを見ている。病気は診ているけど人間は見ていなかったという医者がいました。

生きているだけでうれしいような気がします。

生死一如という言葉が好きです。



東本願寺が提供の番組で番組全体に仏教の考え方が流れていた。

死が身近にない、悲しみがない潔癖な世界はよくない。人の死に直面するのは大変ショックではあるが、死んでいるということを認識することで得ることは大きい。
痛み、苦しみを避けようとして育てるのは間違いであって、生老病死を避けては生きられない。

radiotheatre at 23:34コメント(0)トラックバック(0) 
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